映画『Cry Freedom』(遠い夜明け)でアフリカ英語
スティーブ・ビコ(Steve Biko)は1947年に生まれ、若き政治活動家として、南アフリカの黒人に黒人としての自覚と誇りを植えつける黒人意識の思想を唱道しました。ナタール大学の医学生時代、SASO(南アフリカ学生機構)の結成に尽力しましたが、73年に禁止処分を受け、故郷のキングウィリアムズタウンで軟禁状態となります。 そこでビコは、病院や作業所など、草の根コミュニティー・プロジェクトの建設と運営に力を注いでしました。
アバルトヘイト時代、南アの黒人の行動は激しく制限されていました。スポーツの世界も同じで、黒人だけのサッカー・リーグ、クリケット・リーグ、ラグビー・リーグがありました。しかし、パス法や集団住居法に阻まれ、黒人は自由に国内を移動しにくいため、黒人の全国的な強豪チームはありませんでした。
その一方で、黒人のサッカー試合は、普通、白人を1人も見かけない場所でもありました。ですから黒人の警官を何らかの方法で遠ざけることができたら、そこは黒人だけの相当大きな集会が開ける絶好の機会でもありました。
試合前の球状で、選手たちが練習のボールを蹴りあっているところに、突然ビコの声がスピーカーから流れ出しまました。
我々はこの国を変える
What we’ve got to decide is the best way to do that.
問題はその最上の道を探すことだ
And as angry as we have the right to be,
我々の怒りは当然だが
let us remember
忘れてはならない
that we are in the struggle to kill the idea that one kind of man is superior to another kind of man.
我々の闘いの目的は、ある種の人間が別種の人間より優れているという考え方だ
And killing that idea is not dependent on the white man.
その思想を殺すのに、白人の手は借りない
We must stop looking to him to give us something.
白人に頼る習慣は捨てて
We have to fill the black community with our own pride.
黒人の社会をわれわれ自身の誇りで満たさなければならない
We have to teach our black children black history,
子供たちに黒人の歴史を教え
tell them about our black heroes, our black culture,
我々黒人の英雄、我々黒人の文化を教えれば
so they don’t face the white man believing they are inferior.
子供たちが劣等感を抱きながら白人の前たつことから開放される
Then we’ll stand up to him in anyway he chooses.
そしてそのときこそ我々は白人の望む方法で、白人に勇敢に立ち向かおう
Conflict, if he likes,
白人が望むなら、闘いも辞さない
but with an open hand, too,
だから広い心で言おう
to say we can all build a South Africa worth living in –
我々は力をあわせて住む価値のある南アフリカを建設することができる
a South Africa for equals, black or white,
白人にも黒人にも平等の国を
a South Africa as beautiful as this land is, as beautiful as we are.
美しい国土とそこに住む我々のように
ビコが唱えたこの「黒人意識」は都市部の学校に浸透して行きます。1976年6月16日、ソウェトの数千人の黒人生徒は、教科の半分をアフリカーンス語で教えようと強制する政府に反対してデモを行いました。アフリカーンス語は、抑圧者の言語、それの言語で学ぶということは、体制の召使になる訓練を受けていることだとみなし、学生達は授業を拒みました。
デモの最中に、警察官の銃撃によって13歳のアフリカ人生徒が殺害されると、抗議行動は全国に広がって行きます。政府の対応は野蛮なものでした。政府の調査委員会によれば、1977年2月までにすくなくとも575人が殺害(アフリカ人494人、カラード75人、白人5人、インド人1人)、その内、143人は18歳未満の少年・少女でした。
同映画の原作、『遠い夜明け』(ジョン・ブライリー著、延原恭子訳)には、この事件(ソウェト蜂起)について次のように書いています。
(中略)
一つはっきり言えるのは、投石は重装備の軍用車両の中かその前にいる武装した連中に向けて行われたということだ。催涙ガスは、道端の石ころを唯一の武器とし、防具としては綿かポリエステルの衣類を纏っただけの若者の集団に向けて発射された。
ところが、強烈な催涙ガスがひしめき合う子供たちの間にパニックを引き起こしてから二、三秒も経たないうちに、警官と軍隊が発砲を始めた。その多くは空に向けて撃たれたのではなかった。警官から逃れようとする少年少女が、背中を撃たれてつぎつぎと倒れた。
それから本格的な投石が始まった。銃弾は十二歳の子供たちを、十四歳の子供たちを殺し続けた。戦いは何日も続いた。若者は体制への憎悪を表明するために、殺された仲間の敵討ちとして、窓を壊し、建物を火をつけ、町をめちゃくちゃに破壊した。警官と軍は、それが南アフリカの国民ではなく別世界から来た侵入者であるかのごとく若者を襲い、殴り、銃を向けた。
(中略)
戦いがすべてそうであるように、それは人間の人間に対する、女性、そして子供に対する信じ難いまでの数々の残忍な行為を生み出した。パトカーは薄暗いソウェトの通りを、”周遊”し、まるで公認された狩りでもするかのように男女の別なく子供たちを撃ち殺した。
『遠い夜明け』(ジョン・ブライリー著、延原恭子訳)より引用
ところで、今現在日本の学校ではこれからどんな教育が行われようとしているのでしょうか。歴史は母国語は外国語は。そしてその教育の背景には、どんな人々のどんな思いがあるのでしょうか。しっかりと見つめてゆく必要があるのではないでしょうか。
さて、1977年、ビコはある集会に参加するために軟禁中の身であるにも関わらずケープタウンに向かいます。しかし、途中の検問で逮捕。それから6日後の9月11日、警官隊による暴行によって脳になんらかの損傷を受けます。その後、700マイル離れたプレトリアの警察病院に移送。毛布もひかずに護送車の二台に投げ込まれたビコは、現地に到着して死亡が確認。死因は脳挫傷でしたが、当初の発表はビコが本人の意思でおこなったハンガーストライキによる死亡という虚偽のものでした。ビコを担当していた検察官は、81年に昇進したそうです。
このような不信な死を遂げたのはビコだけではありませんでした。映画のエンディングは南アフリカの獄中で殺された政治犯たちのリストが続きます。次から次へと重なりあう死者たちの黙示録のようでもあります。
BGMは、「ンコシシケレリ・アフリカ/Nkosi sikelel i Afrika」。「アフリカに幸いあれ」という意味で、南アフリカのの黒人にとって自由を象徴する国家です。当時、南アフリカでは公共の場所で堂々と「コシシケレリ・アフリカ」を歌うことは禁じられていました。
1963年9月5日 L.ヌグドル ”首吊り自殺”
1963年9月19日 B.メルホープ 公式説明ナシ
1964年1月24日 J.ティティア ”首吊り自殺”
1964年9月9日 S.サルージ ”7階から転落”
1965年5月7日 N.ガガ ”自然死”
1965年5月8日 P.ホエ ”自然死”
1966年日付不明 J.ハマクヨ ”首吊り自殺”
1966年10月9日 H.ショネイカ ”自殺”
1966年11月19日 L.レオン・ピン ”首つり自殺”
1967年1月5日 A.ア・ヤン ”首つり自殺”
1967年9月9日 A.マディバ ”首つり自殺”
1967年9月11日 J.ツバクエ ”首つり自殺”
1969年2月4日 N.クゴアテ ”シャワーで転倒”
1969年2月28日 S.モディバネ ”シャワーで転倒”
1969年3月10日 J.レンコ ”首つり自殺”
1969年6月17日 C.マエキソ ”自殺”
1969年9月10日 J.モナクゴトラ ”血栓症”
1969年9月27日 A.ハロン ”階段から転倒”
1971年1月21日 M.クセシラ ”自然死”
1971年10月27日 A.テイモル ”10階より転落”
1976年3月19日 J.ムデュルイ ”椅子にぶつかり転倒”
1976年8月5日 M.モハピ ”首つり自殺”
1976年9月2日 L.マズウエンバ ”首つり自殺”
1976年9月25日 D.ムバサ ”首つり自殺”
1976年10月1日 E.ムゾロ 公式説明なし
1976年10月14日 W.トシュワネ 公式説明なし
1976年11月18日 E.ママシラ 公式説明なし
1976年11月26日 T.モサラ 公式説明ナシ
1976年12月11日 W.トシャジバネ 公式説明ナシ
1976年12月14日 G.ボーサ ”階段から転落”
1977年1月9日 N.ヌトシュンツア 公式説明ナシ
1977年1月9日 L.ヌドサガ 公式説明ナシ
1977年1月20日 E.マレル 公式説明ナシ
1977年2月15日 M.マベラネ 公式説明ナシ
1977年2月15日 T.ジョイ 公式説明ナシ
1977年2月22日 S.マリンガ ”自然死”
1977年3月26日 R.クホザ ”首つり自殺”
1977年6月5日 J.マシャバネ ”自殺”
1977年7月7日 P.マビシャ ”6階から転落”
1977年8月11日 E.ロザ 公式説明ナシ
1977年8月3日 H.ハフェジェー 公式説明ナシ
1977年8月5日 B.エムジジ 公式説明ナシ
1977年8月28日 F.モガツシ ”てんかんの発作”
1977年9月12日 S.ビコ ”ハンガースト”
1977年9月12日 B.マラザ ”首つり自殺”
1977年11月9日 M.ジェームズ ”逃亡を試みて射殺”
1977年12月20日 M.ノブハデュラ ”自然死”
1978年6月10日 L.タバラザ ”5階から転落”
1979年10月9日 E.ムゾロ 公式説明ナシ
1980年9月10日 S.ヌズモ ”自然死”
1980年12月20日 S.マタラシ ”狭首自殺”
1981年9月17日 M.ムグキュエト 公式説明ナシ
1981年11月12日 T.ムオフェ ”ケガにより死亡”
1982年2月5日 N.アゲット ”首つり自殺”
1982年8月5日 E.ディバレ ”首つり自殺”
1983年3月7日 T.ムヌダウェ ”首つり自殺”
1983年7月5日 P.マラトジ ”自殺”
1984年1月20日 S.シクド ”自然死”
1984年7月4日 M.シペーレ ”自然死”
1984年8月5日 E.マセサワ ”首つり自殺”
1985年3月1日 T.コロツソアネ 公式説明ナシ
1985年3月29日 B.ムビュラネ ”自然死”
1985年5月5日 S.ムツイ ”てんかん”
1985年5月6日 A.ラディツセラ ”パトカーから転落”
1985年5月12日 M.ラザク ”自殺”
1985年7月4日 J.スボグター ”頭部の傷”
1985年7月4日 M.ムゲルス ”銃弾による傷”
1985年8月16日 S.モコエナ ”首つり自殺”
1986年1月1日 L.バコ ”同室者の犯行”
1986年4月5日 M.クツメラ 公式説明ナシ
1986年4月11日 P.ヌチャバレン ”心臓発作”
1986年4月11日 E.ヌゴマネ ”逃亡を試みて射殺”
1986年5月12日 A.シリカ ”逃亡を試みて射殺”
1986年6月1日 M.ボルティニ ”てんかん”
1986年9月11日 J.マハラング ”逃亡を試みて射殺”
1986年10月1日 M.ソンジェルワ ”ぜん息の発作”
1986年10月22日 X.ジェイコブス ”首つり自殺”
1986年12月15日 B.オリファント ”逃亡を試みて射殺”
1986年12月23日 S.マルーレ ”てんかん”
1987年3月26日 B.マショケ ”首つり自殺”
1987年6月11日に非常事態令が発令されて、政治犯に関する消息は発表されなくなった。
人間が今までどんな過ちを犯してきたのか、そして多くの人間はそのことを今も知らずにいるのか。そのことに気付かせてくれる映画に、書物に感謝しています。