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中村哲医師から
外国語を学ぶ私たちへ
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Once we start something, this would be a permanent base.
一度始めたら、ここは恒久的な拠点になるでしょう。
1998年、医師の中村哲氏はアフガニスタンの山岳地帯に新たな診療所を建てようと考えていました。
「気まぐれに助けて、すぐに去ってしまうのではないか」と不安を抱く現地の人々。
中村医師は「私がいつか死んだとしても、この診療所は続けていく覚悟です」と決意を伝えました。
アフガニスタンの国境近くの町、パキスタン北西部にあるペシャワールに中村医師が着任したのは1984年のこと。
病院には国境を超えて、アフガニスタンからもたくさんの患者が来ていました。
以来35年にわたり、中村医師はアフガニスタンとパキスタンで、病気、戦乱、そして干ばつに苦しむ人々に寄り添いながら、命を救い、生きる手助けをしました。
2000年春、アフガニスタンを大干ばつが襲いました。
農地の砂漠化が進み、家畜の9割が死滅しました。
飢えと渇きで瀕死の人々が中村医師の元に押し寄せましたが、医療で支えるのは限界でした。
さらに翌年2001年には9.11アメリカ同時多発テロが発生。
米英等による「アフガン報復爆撃」が加熱し、困窮した人々の暮らしを追い込んでいきました。
「今人々に必要なのは100の診療所よりも1つの用水路だ」 中村医師は用水路の建設という、誰も想像しなかった決断をします。
アフガニスタン東部のクナール川から水を引き、干上がった畑を回復させようというのです。
「緑の大地計画」という壮大な挑戦でした。
土木技術を学んだことのない中村医師は数学を一から勉強しなおし、設計図もすべて自分で作り上げました。
用水路には「真珠の水」という意味の「マルワリード用水路」 (Marwarid Canal)と名がつけられ、2003年に着工されました。
工事はたいへんなことの連続でした。
昔の人々はどうやって自然の河川から水を取り込み、どうやって水路を作り、多くの開墾地を開いたのか。
中村医師は、日本に帰国するたびに時間さえあれば水利施設に赴き、「昔から残っているもの」に照準を当て見て回りました。
用水路に水を引くための堰(せき)作りは、福岡県朝倉市にある山田堰(やまだぜき)の工法を取り入れました。
山田堰が完成したのは1790年ですが、今も活躍している工法です。
大きな石と小さな石を組み合わせて作るため、重機などない江戸時代でも工事が可能でした。
堤防づくりには、日本に古くから伝わる蛇龍(じゃかご)工と柳枝(りゅうし)工が使われました。
蛇龍は鉄線を編んでそこに石をつめていくだけですが、コンクリートと同じくらいの強度があります。
アフガニスタンでは農民全員が石工と言っていいくらいに、石造りに慣れていて、家や垣根も全部自分たちが石で作っていました。
蛇篭はこの国にぴったりの工法でした。
その蛇篭の背面に柳を多数植えると、無数の根が石の隙間へと入り込み、やがて蛇籠の石を抱え込んで用水路の護岸を補強しました。
柳は不思議な植物で、幹が太くなっても硬いものを押し壊すことがなく、水に浸っても根腐れを起こしませんでした。
建設開始から7年たった2010年、13キロの予定だった用水路は、およそ倍の25キロ(現在27キロ)まで伸び完成しました。
水路周辺約1万6千ヘクタールが緑化され、約65万人の命と生活を支えていると言われています。
中村医師は、用水路が完成した後もずっと村人たちの手で維持管理が行える方法を大切にしました。
そして、用水路建設のノウハウをアフガニスタン全土に広げるため、用水路建設の専門家を育てる職業訓練校「PMS(*1)トレーニングセンター」が、2018年4月に完成しました。
技術部門責任者のディダール技師は、中村医師と約2年間、各地から集まったアフガン政府の技術者に、灌漑方式の授業や現場での実地訓練を行いました。
「ある日研修生たちが、中村先生に『先生が自分たちの州や他の州でPMS方式の灌漑設備を作ってくれたら…』と尋ねました。
先生は『中村もPMSも一つしかありません。
だからこそ、技術者のあなた方が、ここで学んでいるのですよ。
どのように造れば取水ができ、畑に水がひけるかということをすべて教えますので、皆さん一人一人が中村になり、自身の州の人々のために一生懸命働いてください』と言われました」(ディダール技師)
「村人たちによる用水路の建設・維持管理」へのこだわりは、こんな諺を思い起こさせます。
“If you give a man a fish, you feed him for a day.
人に釣りを教えれば、一生食べさせてあげられる
If you teach a man to fish, you feed him for a lifetime.”
人に魚を与えれば、一日だけ食べさせることができる。
中村医師の「恒久的に拠点する」という決意が、ひたむきに貫かれているのを感じます。
2019年12月、中村医師はいつものように工事現場に行く途中、何者かの凶弾に倒れました。
享年73歳でした。
中村医師の活動を20年以上にわたって取り続けたドキュメンタリー映画『荒野に希望の灯をともす』が現在上演中です。
映像の中で中村医師が現地の言葉で会話する姿が何度も登場します。
その一つはパシュトゥ語と言われる言語で、アフガニスタンおよび北西辺境州の最も重要な言語だそうです。
現地赴任する日本人のために、中村先生が執筆した「実用パシュトゥ語会話 初歩の初歩」という資料がありました。
※実用パシュトゥ語会話 初歩の初歩 : 現地赴任者のための[1996年1月版]
本文中に、中村医師の次のようなアドバイスがありました。
「(パシュトゥ語は)整然とした規則性がなく、複雑である。
アクセントはその位置で意味が変わる。外国人に敬遠されるのはその複雑さのためで、習得に時間がかかる。
系統的な独修が困難である。
しかし、元来が『話しことば』であって、文法はそこそこにして文章をそのまま覚えるほうが近道である。
この小冊子では多少舌足らずだが、文法的な事は最低限これくらい知っておき、あとは具体的な文例をどしどし記憶すればよい」
文法の勉強に時間を割き過ぎず、自分が実際に使いたい文をどんどん記憶する。
実用的な外国語を学ぼうとする人々にとって、とても有益な方法ではないでしょうか。
(参照図書・映像)
※『天、共に在り アフガニスタン三十年の闘い』(中村哲 著)
(*1)PMSとは
PMS(Peace(Japan) Medical Services)は平和医療団・日本総院長の中村哲医師が率いる現地事業体。