小学生から主婦、そしてプロフェッショナルまで 日本人との交流を通して学んだこと – ヤスミン先生(鶴見) ETCマンツーマン英会話
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Q どのようなきっかけで日本にいらっしゃったのですか
JDS(Japanese Grant Aid for Human Resource Development Scholarship)(*1)の奨学生の一人として来日しました。2004年7月のことです。
この時、強烈なカルチャー・ショックを受けました。日本食が全く食べられなかったのです。バングラディッシュから参加した他の奨学生も全く同じ状況でした。
Q 最も苦手だった日本食は?
私はモスレムなので豚肉が食べられません。ですから、日本食を食べる際には、その都度豚肉が使われていなかどうかを確認しなければなりませんでした。マクドナルドでさえ簡単に食事はできませんでした。
Q 異国の地で食事が口に合わないのは、心細く感じる理由の一つですね。
そうですね。このプログラムに参加した奨学生は、まず新宿のサンルートホテルに3ヶ月間滞在して、日本語を学ぶことから始めます。実は、私は1ヶ月間に結婚した夫をバングラディッシュにおいて来日していたのです。夫と離れ、遠い異国の地のホテルで一人で暮らさなければならないという寂しさもありました。ホテルでは調理ができなかったので、コンビでご飯と牛乳を買って食べていました。新しい文化の中で生きて行く術を学んだ最初の体験でした。
しかし、そのような環境の中でも私たちは日本語を学ばなければなりません。私は、新宿の街にでて人々とコミュニケーションを始めました。街には多すぎるほどの店舗が並び、いつも活気に溢れていました。私は新宿の街を楽しみました。
そして、同年の9月、新潟県南魚沼市の国際大学に進学しました。
Q 新宿から新潟ですか?新潟でまたカルチャーショックを受けたのでは?
国際大学のキャンパスは、新宿よりもずっと国際的な環境ですぐになじむことができました。大学教授は、日本人だけでなく、アメリカ人、イギリス人、オーストラリア人など国際色豊かでした。大学の寮での生活が始まったのですが、たくさんの留学生で溢れていました。また、寮では調理ができたので、食事の問題もありませんでした。
そして、大学生活を楽しみ始めた頃に、大地震が起こります。
Q 新潟県中越地震ですね。あの日、あの場所にいて地震を体験されたのですか?
はい。2004年10月23日のことです。とても大きなショックを受けました。地震のちょうど一週間前に、文化交流プログラムで新潟県小千谷市を訪れていたのですが、震度6の地震に襲われ、この地域は大きなダメージを受けました。もしプログラムが一週間遅かったら等と考えると、パニック状態になり毎日泣いていました。地震の後しばらくは避難所の床の上で毛布一枚に包まって暮らしました。
その年の12月に、夫が私と同じ奨学生として来日しました。
Q 英語を教えるようになったきっかけは?
うおぬま国際交流会(UMEX)が、日本人に英語を教える外国人を探していることを知りました。生徒さんは50歳の主婦の方々が中心のグループレッスンです。「グループレッスンは苦手、人前で英語を話すのはちょっと恥ずかしい」という生徒には、プライベートのレッスンも始めました。当時の生徒さん達とは今も友人として交流が続いています。日本の文化、言葉、そして人について学ぶことができたとても貴重な体験でした。
Q その後なんとヘッドハンターに転身されたそうですね
はい。夫の大学卒業と同時に東京に引越しをし、ヘッドハンターの職につきます。銀行や保険会社、メルリリンチ、JPモルガン、リーマンブラザーズなどの投資銀行のバイス・プレジデント、アシスタント・バイス・プレジデント等の職に資する、高いプロフェッショナリティを有する人材を探すのが仕事でした。
私はこの仕事で日本語を学びました。ビジネスで使える日本語です。今でも日本人の友人に指摘されるのは、私の日本語は時々ビジネス的で丁寧すぎる場合があるようようです。
やりがいのある仕事で、日本人を良く知る機会でもありました。大きな実績も上げ、投資銀行の重要なポジションの方を複数名ヘッドハントにも成功しました。しかし、バンカーの方の仕事が終わってから夜遅く夜11時から面談をしなければならないなど、とてもストレスの溜まる仕事でもありました。家族のこともあり2年で退職しました。
Q その後、本格的に英語教師としてのお仕事を始められるわけですね。
2009年から横浜市では小学校の授業で英語を始めるのですが、同市の岸谷小学校で英語の先生になります。私の授業の様子は、「横浜の小学校での初の英語の授業」としてNHKのニュースでも放送されました。私は小学生の間でちょっとした有名人になりました。私は、この時に日本の子どもの文化を学びました。みんなとても恥かしがりやですが、お互いのことが分かってくると、授業をとても楽しんでくれるのです。
2010年出産・育児のために休職し、2014年から復職。現在は工業高校で教えています。
Q 工業高校の生徒さんはいかがですか?
16歳から18歳。小学生とは違いますが、恥かしがりや、でもとっても愉快な生徒さんたちです。
Q 先生のような英語を母国語としない先生に英語を学ぶことのメリットについて教えてください
先ず、私の場合は国際大学での経験がとても貴重でした。国際的な環境の中で、アメリカ人の英語、イギリス人の英語、オーストラリア人の英語、そして日本人の英語に触れる、英語が一つではないことを身をもって体験しました。
また、私は日本語が分かると共に、その文化も学んできました。多くの日本人は英語のライティングにおいて、とても高い能力を持っています。その一方で、スピーキングが不得手と言われるのは、日本人の性格や文化も影響しているのかもしれません。そのような背景を理解できる私であれば、より早く生徒さんの能力を引き出すお手伝いができると思います。
Q 小学生から主婦、そして企業のハイ・プロフェッショナルまで、幅広い層の日本人と深く交流されて来た先生は、日本のよき理解者でもある訳ですね。震災においても貴重な体験をされたと思います。
外国を学ぶ際に大切なのは、その言葉の背景にある歴史や文化を理解することであると思いますが、先生も生徒さんの文化的背景を理解されていることで、より相乗効果は高まるのではないでしょうか。なにより、生徒さんが安心してレッスンを受けることができると思います。今日は楽しいお話を有難うございました。
[了]
「人材育成奨学計画」 略称:JDS
日本政府の「留学生受入10万人計画」の下、平成11年度に新設された無償資金協力による留学生受入事業。
当事業では、「対象国において将来指導者となることが期待される優秀な若手行政官等を日本の大学に留学生として受け入れ、帰国後は、社会・経済開発計画の立案・実施において、留学中に得た専門知識を有する人材として活躍すること、またひいては日本の良き理解者として両国友好関係の基盤の拡大と強化に貢献すること」を目的としている。
[参照] 独立行政法人 国際協力機構ホームページ